昭和四十五年七月四日 朝の御理解


御理解第四十五節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断をするな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」


  世に三宝様とかっこして穀物の意と注釈してありますねえ。食物をお粗末にするなと、食物を踏みつけたりすると足が頭につくぞという風に子供の時に年寄りからよく云われました。畳の上に落ちている御飯つぶでも、やっぱり拾ってそれをおし頂いて、頂かねばならんものと教えられた。そういう意味でしょう。
  三宝様を踏むと目がつぶれると云うが、私共が目がつぶれると云う前に、まず目あきでなければならない。いわば肉眼を置いて心眼を開けとおっしゃる。その心眼がお話を頂きますとうっすらと分かってくるような気がする。それが段々体験ずけられて参ります時に、例えば難はみかげとハッキリ云えれる程しになってくる。まあだ難は難と見えておる時には、まあだいわば目が開けてない時です。
  難ではない、それは御神意又は御神愛という事がハッキリ分かってくるという事が、私はここで云う目を開かせて頂いておる者の姿だと、こう思います。
  ですから信心させて頂いて段々身に徳がつく程とおっしゃる、信心させて頂いて段々肉眼の世界から心眼の世界、いうなら次元の違った世界というものを自分で感じれれるようになる。その辺の所から私は、この御理解がいよいよ有り難いものになってくるのじゃないかと、こう思います。
  ここにいろいろ例えをもって教えておられます。三宝様はみのる程屈む、とこが段々本当の事が分かってくる事によってかえっていうなら横着、わがまま又は実意丁寧を欠いでくる。そこでいわば頭が高くなる訳ですねえ。だからその辺の所から私共がいよいよ本当の徳、本当の信心をいよいよ身につけていかなければならない。
  神様は大声で叱ったり、手を振り上げたりして教えて下さるという事はない。いわば何とはなしに教えて下さる、ですからそこんところをうかつにしておりますと教えておって下さる事が気がつかない。
  段々、健康になりますと・・・先日も私、菊栄会の方達に話した事でしたけれども、忙しいとか時間が無いとかと云うて、あの時死んだと思うたら今時はなあにもないとよ。あの時の事をひとつ思うてみなけりゃ、と例えば生きるか死ぬるかというようなところを通らせて頂いておかげを頂いて、忙しい忙しいと云うておる人にそんな風に申しました。私はもうその人は、健康をいうなら三宝様を踏んでおるようなものでなかろうかと思うた。その健康のおかげを頂いた、その健康がいうなら神様のお喜び頂ける御用に、十分使わせて頂くという事にならなければならん。銭金の事でもそうなんです。人間は身代が出来たりと、こう云うておられますが、少し身代が出来てくるともうまるきり自分の働きがよいから身代が出来たように思う、ところからそれをお粗末にする。いわゆる踏みつける。そこで金を持っておる為に難儀をしなければならない。
  先日も、ある若い嫁さんがお参りをして来て、あんまりお金のある所に嫁入らせて頂いたら、とにかくそこには仲良う楽しゅう等といったようなものは、もうみじんもない。何もかにもがお金で解決する、お金で解決の出来るもんと思うとる。お前とは、いつ別れてもいいぞと金で解決する腹であるらしい。「本当に金が恨めしい」と云うて、ここで泣かれました。けれども、当の本人は神様からいわば何とはなしに手を振り上げられたり、大声で叱られたりという事はないにしても、もう大抵いい加減で気がつかんかと教えて頂いておるけれども、それに気がつかない。ですから次々と、これでもかこれでもかとお気付を頂いておる。お金は相変わらず、どんどん儲かっておる。それはいよいよ儲かっておるという事は、いよいよ難儀が大きくなっていきよるという事ですよねえ。そういう事で大きくなっていきよるという事は・・・
  私はその時、神様にお知らせを頂いた事はね、『何か罪人のような人が警官に追われておる。ところが丁度橋の上にやって参りましたら、橋から川の中に飛び込んだ。そしたらその警官がです、今度までは見逃してやろうという風に云よるような感じ、そしてもうそこではそこのお母さんが一人信心されるだけなのですよ。そのお母さんがね、一生懸命合掌しておられるところを頂いた。」その時御理解にね、年寄りが、どうぞ息子を助けて下さい。と云うて一心に頼みよるからつかめられるとじゃけれども、つかめんで見逃しておるという感じなんです。私はその親の祈りが無くなったらどうなるじゃろかと思います。ですからもう、つかまえようと思えばいつでも捕まえられる。けれども只、親がどうぞ息子を助けて下さい、と云うて一心に縋っておるから、見逃しておるのじゃというような事。そして追われるまでには、随分お気付けも頂きよる。しかし、お金はどんどん貯まっていきよる。けれどもどんなに貯まってもいっぺんにガチャッと捕まえられたらそれきりなんですものね。
  人間関係でもそうです。本当に健康と経済、又は人間関係、この三つが大体難儀の大本のような気が致します。だから、そこんところを大事にされるという事が私は三宝様だと思う。三つの宝。人間が一番大事なものは、まず何と云うても健康、経済力それにいわゆる人間関係がスムーズに行ったらおかげを頂いておる。だからその全てがです、踏みつけるような事なしに全てが大事にされなきゃならない。そこでそれを大事にしていく事の為に、私共は信心をして身に徳がつく程屈んで通れと、屈んで通っておれば問題はない。屈んで通っておるつもりだけれども何とはなしに慢心が出ておるという事になりますから、非常にこの辺が又難しいところ。そこで私共はね、そこのところのいうなら調子をとりはずさんようにしなければいけない。もう何と申しますか、いうならば不愉快な事が続くイライラするような事が続く、もう既にね調子をとりはずいておる時です。ですからそういういわぱ、調子を取り外した生き方をしておるとです。やゝもするとおかげを頂いた事が、かえっておかげを落とす元になる。いわゆる慢心が出るとかげを取り外すぞと。
  私は昨夜、御祈念の後に聞いて頂いたんですけれども、皆さんが「親先生、親先生」云うて下さるようになったら、頭を下げる事を忘れていきよるとじゃなかろうかと思うた。自分でも反省させてもらいます。それは形の上に於いてはどうあっておるとしても、神様から御覧になってこの頃、頭が高うなったという風に感じられておるのではなかろうか、と思うのです。
  昨日は、私は朝から非常に体がきつかった。もうきつい時には肩で息をするごと云うでしょう、肩で息をするごときつかった。それがね、御結界をつとめておる時にはどうやらこうやらつとまるのですけれどもね、もう下りたが最後もうきついのですね。こげな事じゃ相すまんと思いますけれども、きつい。夕べもやっとかっと御祈念を奉仕させて頂いて、もうそのまま休ませてもろうた。久富先生と繁雄さんに全身マッサージをして頂いた。おかげで今朝は少しシャンとしておられるような感じ。
  私はあんまりきついから、御祈念をさせて頂いてから御神前で体のきつい事を神様に訴えるようにしてお願いさせて頂いとったら、あの八足が横に揺れるところを頂いた。上のお供え物がもう落ちはせんだろうかというように感じた。お供え物というのは、これは私が受けておるおかげという事でしょうねえ。余りにおかげが大きすぎるもんだから、下の八足がもうゆらゆらしよる。それが私が肩で息をする程、きついという事じゃないだろうか。これは大変な事だ、おかげの頂きすぎなんです。これは本当、用心しなければいけないなと、おかげを少し減らしてもらうか、それでなかったらこちらがもちっと頑丈な八足になるかしなければこれはいけないと、夕べはその事をお詫びさせて頂いたような事でした。
  先日もでした。月次祭後に企画の方達が五、六人何か今日は重要会議があるという事であったから、「そんなら私の部屋が冷房がきいているからあそこでしなさい」と申しましたから、あちらにみんなみえまして、呼び行かれておるその間に私が自分の居間で頂く事はです、今日はどういう事をあの人達は重要会議をするとじゃろうかと思いよったら、その呼び行っとる間に頂く事がですね、『客殿の向こうに大きな梅の木があります。あの梅の木にですね、大きなそれこそ人間のごと大きなうぐいすがとまっとる。それだもんで枝がですね、折れかかっているところ』を頂いた。はゝあ今日この人達が企画を思い立ってる事は、何か大きな事をしよるとじゃろうかと、これは今度はまあだ私の方の梅の木が大きゅうなるか、うぐいすがもうちっと小さくなるかしなければ受けられんて、私が思いましてね、聞きましたらやっぱりなる程、今の合楽にはちよっと無理な事が企画されようとしておった訳です。 だから「これはまちっと私が大きゅうなるまで、待ってもらえんじゃろうか、もう少し手前の小さい事から」と云うて小さい事の話し合いがございましたけれどもね・・・・・本当に、もう力無しにやっておるという事は、本当はそのように危ない事なんですよ。持てる力も持たずに持っておるという事は、だからいつもイライラがあったり、腹が立ったりするでしょう。それこそ八足がゆらゆらしよる、いつ落つるじゃれ分からんという不安がいつもある。だからそれを酒にごまかしたり、女に入れあげたりというように何かそこに自分をごまかす方法を考え出す。だからいよいよいけない訳です。
  私は本当に自分の信心の力、いわば身に徳がつく程、頭を下げて辞を低うしてという事は、どんなに考えても勿体ない勿体ないという事だと私は思います。その勿体ない勿体ないが欠げるところにです、イライラモヤモヤが出来てくる。もう自分で持ちこたえられんようになる。
  家内と昨日話しました。本当にお前が炊事場で朝から晩までチンチロ舞してから御用頂きよるのを見とると、こっちが楽しゅうなる位生き生きしとるですね。これはもう本当に、だあれも適う事じゃなかです。それはもう本当に生き生きして、「さあ又お客さんよ、さあ又よ」ともうそのたんびに、もうそれこそいやな顔ひとつせずに御用頂きよる。もうそれは本当云うたらくたくたでなからないけんのに・・・・・ですからお広前に出てくると、お広前はもう眠り場所のごと思うてから来た途端にちゃんと眠りよるという感じ。そこで「お母さん、俺とお前は反対、私はお広前に出ると体がシャンとするけれども、こちらへ下がったらガタガタと崩れてしまう。だからこれでは両方がいかんからね、やはり私がお広前でシャンとしておって下がってもシャンとしておれれるように、あんたが炊事場でそれこそ生き生きと御用が出来ておる。その生き生きとした姿がお広前でもそのまま頂けるような、何とか工夫せにゃいかんぞ」と云うて、昨日二人で話しました。それがどういうようなところから、そういうような事になってくるのかとやはりおかげの頂きすぎだという風に思うのです。同時に、私は神様が手を振り上げたり、大声をしたりしては下さらんけれども、何とはなしにそのようにしてお気付けを下さるのですから、例えばそんなら企画の方達がこういう教会発展の為の企画をなさっておられる。「それはよか事思いついたの、やらんのやらんの」と例えば云よったんでは私はいけない。やはり自分自身の力というものを知って自分の力に応じた、そして又おかげを頂きたいなら自分の力がいよいよつく事の為の信心修行しなければならないなという事を思います。同時に私は私共が一番自分の信心の姿というものを分からして頂く事は、やはり自然との調和、調子だと思います。自分の心の調子というものがあっているかどうかという事です。もう調和しない時にはです、もう本当にそれはいわゆる素晴らしいタイミングという事を申しますが、同じそのタイミングでもね、反対に素晴らしいタイミングというところもありますけれどもね、それでもそれが素晴らしいタイミングであるならばね、その入れ違いになったり、すれ違いになったりする事が非常に又有り難い事になってくるんです。「神様のご都合っちゃこげんも間違いがない」とピシャッと合うようなタイミングとです、それとは反対になっていく事もあります。云うなら、右と願って左、左と願って右というような時もありますけれども、そういう時にはね、それが素晴らしいタイミングですから、いきあわないのが素晴らしいタイミングですから・・・・・
  例えば借金取りが来た、お金がない、という時にはすれ違うた方がおかげでしょうが。それが素晴らしいタイミングでピシャッとおうとったら又やられなならんでしょう。だから、そういう風なものを感じるおかげをね、私は調子という事。もうこの調子が崩れ出しますとね、もう本当につまりません。だからその調子を私共が取り違えないようにしておきますと大体、天で頭を打つような事のないおかげが受けられます。
  今日私は、三宝様を踏むと目がつぶれるとこう云う。ですから私共はつぶれる目というのは、まだ目が見えておるという事。それを私は肉眼と心眼という意味でお話ししました。信心させて頂いて、段々本当な事が分かってきた。今まで難儀と思うておった事は難儀ではないと、それをうっすらとこう分かってきた。身に段々徳がついてくると、頭をさげる事を忘れるとおっしゃるように、うっすらと見えだしてくるとですね、かえって云うなら少うしお徳に触れ出しますと、人間が非常に横着になります。そういう段階があります。もう自分は神様に信用されとる、といったような自惚れです。だからそういう時に、いわば横着な事を平気で致します。だからいうならば少し肉眼を置いて心眼が開け出した人達のところからです、今日の御理解を頂いておる。だから皆さんはそういうところだと思いますね。少しは本当の事が分かってきた。だからそれをより本当のものにする為に、いよいよ頭を下げるという事は形で下げるのじゃなくて、勿体ないなあと、どんなに考えても勿体ないぞという、その勿体ないというものがもう少し自分の心に問われなければならない、という事です。そこからもう一段違った世界いわゆるスッキリと心眼を開かせて頂くというスッキリ全てが見えるというおかげのところへ進んでいかなければならない。
  慢心が出るとおかげを取り外すと、だから本当に慢心が云うならば出る程しの大きなおかげを頂きたい。そして、なおかつこれをせっかくのおかげを頂いて、おかげを取り外すような事があっちゃなりませんから、私が昨夜、夜の御理解に頂きましたようにです、勿体ない事だと、信心も出来んのにこのようなおかげ頂いてという事に、いよいよ勿体なさというものが本当なものになってくるところから、勿体ないならどうしたらよいか、こんな事では勿体ないと思うからそこから又違う信心が工夫されるでしょう。いうならどういう大きなうぐいすが止まってもびくともせんだけの梅の木になる事です。どんなにたくさんのおかげを頂いても、どんなに山盛りのお供えを頂いても下の八足がそれこそビリッともせんで済むだけのこちらが力を頂く事です。
  頭を下げる事を忘れる。私共が頭を下げる事を忘れるという事は、勿体ないという心がいよいよ欠如していきよる、少なくなっていきよる、そこんところを私はイライラとかモヤモヤという時にはいよいよ勿体ない心が欠けておる時だと悟らせてもろうて、いわゆるいつも頭を、いわば辞を低うしておかげを頂かせてもらう信心を頂きたい。
  これはいつか頂いた御理解の中に、私共子供の時に「餅まき」というのがありますねえ、棟上げの時餅まきを致します。それがもうたくさんひらいたい訳ですから、上におんなさる人に自分のおるとこにどんどん投げてもらいたいと思うものですから「おっちゃん、ここ、ここ」と手を叩いて云うとまいてやらっしゃる。そして「おっちゃん、ここ、ここ」と云よる者はひらい出しはせん。下の方をこうやって這うとる者がちゃんとひろうてしもうとる、そんなもんです。
  もう私共は、それこそ地に這うようにしてです、辞を低うしておる。そこに限りないおかげを拾わせて頂くという事が出来ると思うのですよ。どうぞ。